こんにちは!こちらはスキノ鉱山を冒険するぐらすけ探検隊です!
ぼくは隊長のぐらすけ。
「好きかも!」と興味を持ったものを深掘りするのが大好きなもぐらです!
今日もまだ多くの謎に包まれた「スキノ鉱山」で、たくさんの面白い鉱石を掘り出してます。
今回は映画の鉱脈にて、1995年に公開されたジブリ映画「耳をすませば」について一体どんなところが「好き」なのか深掘りします!
ぼくの気持ちに呼応するかのように、洞窟内の「スキノ鉱石」たちが掘り出されるのをいまかいまかと待ち望んでいるような心地がしてます。
ずっと好きだった「耳をすませば」。それについてしっかりとどこが「好き」か向き合っていきましょう!
ぼくは公開当時、この作品を映画館で見たような記憶があるんだけれど、実際の公開年と自分の記憶を照らし合わせてみると思ったよりも前の作品だったことに驚きました
年齢を明かしてないのでなんとも伝わりにくいと思いますが、手元にパンフレットがあるので劇場へ足を運んだのは間違いはないと思うんです。
だけど、もっと成長した思春期入り始めのころの作品だと勘違いしてたんですよね。
もしかするとこの記憶のズレは、好きで何度も繰り返し見ていたからかもしれません!
それでは前置きが長くなってしまいましたが、早速「耳をすませば」の「好き」を深掘りしていきましょう!
今回はどんな「スキノ鉱石」が眠っているか楽しみです!
※この記事はネタバレを含みます。それでも問題のない方のみご覧いただけると幸いです。
改めて「耳をすませば」とは?
すでにメジャーな作品なのでご存じの方も多いと思いますが、改めて「耳をすませば」の基本情報について簡単にまとめてみました。
そう、この作品は1990年代の宮崎駿さんが関わるジブリ作品としては珍しく、監督が宮崎さんではないんですよね!
それが関係しているかはわかりませんが、描かれる東京の情景とファンタジー世界の行き来のバランスが、他の宮崎監督作品とは違っていると感じていました。
良い意味での物語としての「ウソ」が少ない作品と言えばいいのでしょうか、本当に存在しそうな等身大の主人公「雫」に強く共感したものです。
その姿が若かりし日のぼくを刺激して、熱心に絵を描いたり、当時運営していた個人ブログの文章を描いたりするモチベーションの一端にあったと思います。
当時はまだSNSなどが発展しておらず、制作をする人の姿が可視化されづらい時代でしたが、目に見えて頑張る雫はぼくにとっての目標であり憧れだったのですね。
大人になっても何度も見返す、まさにぐらすけの「原点」とも言うべき作品だと思います!
ぐらすけの「好き」ポイント
今回深掘りするにあたって、この作品のどこが好きなのだろうと改めて考えてみると、以下のようなポイントがぼくの中に浮かんできました。
- 小説家、バイオリン職人などモノを作る人の話:モノを作る人に興味津々
- 図書館、小説家など本にまつわる話:とにかく本が好き!
- 自分のやりたいことに真っ直ぐな人たちが登場:情熱を持ってる人が好き!
いやぁ…自分でリストアップしてみて、本当に自分の好きなことがたくさん詰まった作品なんだなぁと思います。
これまでぼんやりと「好き」だった気持ちが、可視化されることで「こりゃ当然だな」というものに変化しました(笑)
さて、少しずつこの「好き」ポイントについて深く掘り進めていってみましょう!
もっと深掘りしてみよう!
小説家、バイオリン職人などモノを作る人の話
この作品には小説家になりたい雫、バイオリン職人になりたい聖司、時計の修理をしたり楽器の演奏ができる地球屋のおじいちゃんなどなど、自分の感性を大事にする登場人物が多いところがいいんですよね。
特に感情移入してしまうのはやっぱり主人公の雫です。
- 本のために図書館に通い詰める熱心さ
- 好きなことに寝食忘れて取り組む姿勢
- 経験したことへ豊かな感情表現
- 他者と比較して感じてしまう劣等感
- ハードルを課して自分自身を試す強さ
などなど、自分の好きなことへ真っ直ぐに向き合っているからこそ生まれるキャラクター性は、とても説得力がありました。
日常シーンでは思春期の少女らしい反応を見せる雫ですが、その表情が打って変わるのが空を飛ぶ飛行船を見たときや、猫のムーンについて知らない道へ迷い込むときなどの物語が始まりそうな瞬間です。
非日常を捉えるアンテナが高くて、些細なことでも好奇心を膨らませて楽しむことができる性格に、自分もそうありたいと無意識に思っていたことに気づきました。
そんなキャラクターを描ける監督の近藤さんや宮崎さんの日常を見つめる目の繊細さが透けて見えるようでした。
日常の些細なことからイメージが膨らんで、自分だけに見える世界をまとうのってとっても素敵だと思います。
そして後半の小説を書くシーンでは、親や学校からの心配を振り切って「短い期間で小説を書き切る」という大きな試練を自分に与えるところも魅力です。
自分の能力はゲームのように数値で見えないので、取り組んだ結果でしか測れないんですよね。
やってみないとわからない。自分にできるかどうかわからない。
だけど聖司はどんどん先へいってしまう。自分も何かをやらないといけない…
創作中の雫はとても不安な日々を過ごしていたと思います。
最終的には小説を書き切った雫でしたが、目標を達成したにもかかわらず「書いてみてわかった、書きたいだけじゃダメなんだ」と言い涙を流します。
これは試練を乗り越えたからこそわかる視点で、自分はまだまだ世の中を知らなければならない(=子どもだった)ということに気がついたところが、創作者として、そして大人になる大きな一歩を踏み出す重要なシーンだったと思いました。
この地球屋のおじいさんとの完成した小説にまつわるやりとりは、何度見返しても創作に対する愛情やリスペクトがたくさん詰まっていて、胸が熱くなります。
走り始めたばかりの創作者へのあたたかな眼差しに、なんだか自分が応援されているような気がして涙が出そうになる、大好きなシーンです。
おじいさんが雫や聖司の若者のポテンシャルを磨かれていない原石に例える表現も、とても心をくすぐるんですよね。
しかも実物の鉱石を見せながらそのことを語るシーンは、ぼく自身にもそれを教えてくれるようでいい大人になった今でも見る度に気を引き締め直されるような心地になります。
図書館、小説家など本にまつわる話
ぼくは「本」という媒体がそもそも大好きです!
だから主人公が本が好きで図書館に通っているという設定だけでもう「好き!」と胸を張って言えます。
子どもの頃は図書館で働く父を持つ雫に謎の憧れを抱いていました(笑)
雫は劇中、図書室解放日が待てないほどの読書欲を持ち、夏休みに20冊読むという大胆な目標設定をしていました。
さらには市立図書館にはなくて学校の図書館にある、誰も借りたことのない本のことまで把握している…
一体のその情報はどうやって手に入れたのかが気になって仕方ありません(笑)
おそらく片っ端からファンタジーの分類棚にある本を読んでいると思うのですが、もうそれがぼくの読書家としての理想の姿なんですよね…
収集心や達成欲が強いぼくにとってはすべてを飲み込もうとする雫の姿に眩しさしか感じていませんでした。
…と色々と「耳をすませば」と「本」について「好き」を語っていたらかなりのボリュームになってしまいそうだったので、この件に関してはさらに深掘り!記事として独立させたものを制作することにしました!
完成したらリンクを繋げますので、是非ともそちらもお楽しみいただけたら嬉しいです!
自分のやりたいことに真っ直ぐな人たちが登場
これまで取り上げてきた雫はもちろんですが、バイオリン作りのために高校進学をやめて留学をする聖司という設定も、自分の道を決めて突き進む強さがみられます。
あの年齢ですでに将来の自分を明確に設定して、人とは違う道を歩む決断ができる中学生はこの現代日本にそういるとはとても思えません。
聖司がそのような道に進む選択ができたのも、地球屋のオーナーであるおじいちゃんの存在が大きかったと思います。
おじいちゃんも自分の好きを追求している人物のひとり。
感性のアンテナを豊かに育むことができる、聖司にとっての恵まれた環境だったのでしょう。
思春期という不安定な時期に、自分を受け止めてくれる理解者の存在ってとても大きいですよね。
雫のような繊細な感性を持ちながらも、まだ自分とは何か見極められていなかった人物にとって、聖司はのそんな姿はとても眩しく映ったでしょうねぇ…!
人によっては自分の覚悟のなさゆえに聖司のようなタイプを「変わっている」と遠巻きにすることもあるかもしれません。
でも雫はそれに大きな刺激を受けて自分を試す行動に出ました。
それはもちろん自分のためでもありますが、なんといっても聖司と対等でいたいからこそのかわいらしいピュアな気持ちなんですね…
聖司にとってもそんな雫の姿は健気でもあり、張り合いが生まれるようないい関係性だったと、大人になった今そう思います。
また、雫の両親も、論文を書いたり大学に行ったりと自分のやりたいことを大切にしている姿が当たり前です。
90年代に受験期の子を持つ母親が大学に行っているということは、とても珍しかったのではないかと思います。
現代でもなかなか親がもう一度学びに大学に行くことは一般的ではありません。
だからこそ雫の「受験期なのに他のことを優先させて取り組みたい気持ち」を尊重してくれた。
ご両親は心配ながらも、やりたい気持ちは止められないことを知っていたのではないでしょうか。
ここで無理やり受験勉強を強制させなかった判断は、とてもすごいと思います。
そうやって最後までやり通させたからこそ雫は自分で「勉強しなければならない」「成長しなければならない」という人生の本質に気がつくことができたのです。
このやりたいことに突き進む姿勢と現実の対比が実にリアリティがあるところで、安直に「自分の決めた道に進め!」と言わないところがこの作品のよいところなんですよね。
この探検から見えたものは…?
こうやって改めて深掘りしてみると、ぼくはそもそも「雫」という主人公に共感をしながらこの作品を見ていたんだなということがわかりました。
幼い頃の自分の感覚を思い出すと「好きを貫き通して良い」、「好きなことを職業として目指してもいい」ということを学んだ作品だったんだと思います。
そこで自分を雫に重ね合わせ、好きな本を存分に楽しむ感覚にワクワクし、自己成長の旅を一緒に体験していたのでしょう。
実際にグラフィックデザインを学んで創作する側の人間となったぼくですが、感性のアンテナの張り方は雫の影響を受けているといっても過言はありません。
まさにこの作品で描かれているように、本や日常にある小さな事象に感動する心を忘れたくないと思っているし、やりたいこと・好きなことを追求したくて「好きなことを大切にする」がコンセプトの本ブログを立ち上げてしまいました。
このように普通の本好きな中学生だった雫が、創作者の階段へと一歩一歩進んでいくストーリーは、ぼくにとって受け取る側から自ら発信していく側へ変身していく成長物語だったのかもしれません。
当時のパンフレットなどを読み返してみた
冒頭でもお話ししたように、ぼくの手元には当時の映画パンフレットと設定資料集にあたる「バロンのくれた物語」の物語があります。
実は大人になってから真面目に読み返したことがなかったので、これをいい機会に再度目を通してみました。
すると今回の深掘りを経たからこそ自分の中に染み入るような制作側の意図がいくつも書かれていたのです!
特に関心を寄せたのはパンフレットの宮崎駿さんのコメント「この映画の狙い」で、以下のようなことが書かれていました。
自分を、自分の舞台の主人公にすることを諦めがちな観客(中略)に、心の渇きをかきたて、憧れることの大切さを伝えようというのである。(耳をすませば パンフレット 表2より)
宮崎さんのこの狙いは大成功だったといえるでしょう!
日常より日常的な世界からありのままの中学生の姿で繰り広げられる「耳をすませば」の憧れと成長のストーリー。
これは雫たちと同世代の若者たちだけでなく、もうとっくの昔に大人になってしまったぼくたちにも純粋な気持ちを忘れずに、今できることに向かって進んでいくことを教えてくれる作品です。
やはり宮崎さんは視聴者に「夢」を持たせるのが上手いなぁと改めて感じます。
押し付けすぎることなく、主人公の振る舞いや考えでそれを自然と滲ませてくる…
子どもだった当時のぼくは、そのエッセンスを浴びるように取り込んだのでしょう(笑)
やや空想的で好きにこだわる姿勢の原点はここにあると改めて感じました。
探検隊メンバーの一言感想
準備中です
まとめ
長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
この作品のことは「好きな映画は?」と問われたらタイトルを答えるくらい好きだとは思っていましたが、じっくり深掘りしてみるとこんなに好きなポイントに溢れているとは思いもよりませんでした。
ぼくは人が何かに情熱を持って取り組んでいる姿にとても興味を持つようです。
その真剣さに心を打たれて、憧れにも似た気持ちでその人のことを好きになります。
それが全編を通して感じられる「耳をすませば」は、ぼくにとっての大切な大切な作品になっています。
本ブログ「ぐらすけ探検隊のここを採掘場とする」の隊長であるぼくのバイブルとして宣言してもいいくらいです(笑)
みなさんにとって「耳をすませば」はどのような印象の作品なのでしょうか?
またこんな風に、好きなことを熱心に取り組み成長していく(それが絵や小説など文化系の対象物だったらなおさら)物語を知っている方は、ぜひぼくに教えて欲しいです!
それでは当初の想定よりも大きな鉱脈が眠っていて、驚いたぐらすけでした。
また別の採掘場でお会いしましょう。
探検隊隊長 ぐらすけ
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